(この記事は2025年8月11日に書いたものを再構築して執筆している)
今日も例の如く東陽町のgoodcoffeeに行った。モーニングセットを頼んだら、あまりのパン生地の分厚さに胃が悲鳴をあげている。昨日はあまりにも過集中した状態でのネットサーフィンによる情報収集に時間を割き過ぎてしまったので、より手足を動かすようなことに集中していきたい。
最近気がついたのだけれど、僕は外にいる時と家の中にいる時によって集中力、あるいは何に集中できるかが変化する。これは内的刺激と外的刺激のバランスによるものだと思うのだけれど、かなり露骨に作用して作業効率に影響を及ぼす。
話は変わるが、最近は海外音大に進学したいという意欲が薄れてきた。元々1年ほど前からバークリー音楽大学やバーゼル音楽院などに行きたいと思っていて、実際に今年の3月ごろにバークリーを受験し合格したが実際には進学しなかった。自分にもっと気力があれば何らかの方法で資金を調達して留学することもできたと思うのだが、合格した時点で進学意欲が失せていたのでそうはしなかった。既に学士号を所有しているので次に取る学位は修士号であってほしいという気持ちも関係している。 音大というのは基本的に師事する人ありきであったり、また一緒に音楽に取り組む仲間を見つけることありきであったり、もしくは自分のキャリアを見極めるためのモラトリアムでもあったり、そういう面によって構成されている。それに対して僕は特に誰かから学びたいものというのはそもそも無く、誰かと協調する意欲もなく、モラトリアムは既に十分味わってきた。海外音大に進学したいという気持ちはただ、僕の権威主義的な面がそうさせていただけなことにふと気がついた。なかなか認めることが難しいことではあるが、僕は権威に弱いようだ。もちろん海外音大の魅力は権威のみではなく、現在でも海外音大に進学して楽しい生活を送ることを夢想することはあるのだけれど、それはある種の現実逃避だということを自覚している。 環境が変わったところで僕は僕なので、おそらく周りに合わせた音楽とかはできない。自分が主導していくしかなくて、それなのであれば場所はどこでも、学位がなんであろうと本来的に関係は無いのだと思う。現実がそうであることに向き合いたくないから、環境を変える妄想ばかりしてしまう節がある。手を動かして能力を向上させて、本当に取り組みたいことに取り組むべきなのに、なかなかそれを実行するのは難しい。
これは昔からだと思うのだが、僕には「今あるもので戦う」という意識(と実践)が非常に欠如している。永遠に情報を集め続けて、永遠に資金を集め続けて、それでいて何か自分の心踊るプロジェクトを進行させることができない。実際に手を動かすことができないという面がある。そうしたことの積み重なりによって、基礎的な能力が向上しない。悪い方向の完璧主義者なのだ。 置かれた場所で咲く、という言葉は自身の人格と最も遠い場所にある。置かれた場所に満足せず移動し続けて、枯れてしまうのだ。でも、僕はそれもあながち悪くないと思うし、一つの生存戦略でもあるし、美しさでもあると思う。そして、全員が置かれた場所で咲こうとしている世界がもしも存在するのだとしたら、それは各個人が人間であることを欠いているようで不気味だ。
カフェでくつろいでいると、明らかにBTCのトレードをしている外国人が居た。話しかけるか30分ほど迷って、結局話しかけることができなかった。こういう時に踏み出せないことによって、僕の人生はギリギリ日本的社会の内側に留まることができている。
読んでくれてありがとう。