(この記事は2025年8月13日に書いたものを再構築して執筆している)
会社に行っていると、日記に書くような出来事など殆どと言っていいほど存在しない。脳のリソースはPC作業に食われているし、感情はコンプレッションがかかっていく。それでも浮かんでは消えていくものを、書き残しておきたい。
今日は帰宅してから、先週から構築しているStable Diffusion環境やその他LLM系のサービスなどを弄っていた。生成AIのレベルは想像していたよりも高い境地へ至っているようで、絵だけではなくて音楽もかなりクオリティが高い。LLMの技術的な全体像をまだあまり理解していないのだが、たとえこれが統計的な結果、すなわちあくまでもプログラムの結果の成果物であり、人間が行う意味合いづけのようなものが存在していなかったとしても、あまりのクオリティのその高さに人間の創作という活動が先細りしていく未来が見えてきた。
散々言われていることではあるが、学問であろうと音楽であろうと金融であろうと、自分の好きな、興味のある分野というものの最先端が全てAIに食われていくという危機感を感じている。AIは既存のものしか学べないのだから革新的なものを生み出すことができないという理論は、人間も基本的には既存のものを学ぶことによって進歩しているという基本的なことを見落としている。
僕が怖いのは、成果がAIに奪われることではなく、没頭がAIに奪われることだと思う。僕は消費体験に没頭することが苦手なので、自分が価値を見出せる"本当に面白い取り組み"のようなものだけを求めている。現在うっすらと存在しているように感じるそれが、AIに奪われることがひたすらに怖い。
疑いもせず消費に没頭できるのであればそれで万事解決なのだけれど、なぜか僕はそれがかなり難しく、ある程度没頭できる消費を見つけたとしても常にその状況の自分をメタ認知する以上それは永遠には続かなくて、つまり行き詰まりつつある。
また、仮に創作を「結果」と「過程」という二項に分割したとして、生成AIに「結果」のクオリティにおいて誰も上回ることができなくなった時、僕たちはその残った「過程」の部分にしっかりと価値を見出すことができるのかという懸念がある。過程は、結果がありきで価値があるものなのか、あるいはそうではないのか。
数日前の僕のメモ曰く
価値というものは僕の生の現象として内的な真実を持っているもので、それは一定のタイミングで僕に示されるものなので、自分の存在というパターンの価値性を信じて今まで通りパターンの拡張とコミュニケーションをしていけばいいということなのかもしれない。
という方向に進むのだけれど、これが必ずしも自分の中で長く続いていく基盤になるかどうかはまだ自身でも信じきれていない部分がある。AIがあろうが無かろうが自分というパターンを信じる、という強がりに見えるものを本当にこの先も続けていくことができるのだろうか。
AIが発展した先、創作についても、人間の感じられる価値が経験・体験・共感・解釈に依るものになっていくだろう。僕はそれが嫌で、もっとシンプルでわかりやすい世界の方がいいのだけれど、まあそれでも来る未来を受け入れて何かしら見つけていかないといけないと思っている。
最終的に価値が示されるのは自分(の認識)に対してなので、その観点でどのようにそれらを高めて、持続的でいられるかどうかを試行錯誤していくことが、AIが発展した先の未来で僕たちが生きる意味を持ち続ける唯一の方法である気がしている。
読んでくれてありがとう。